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2007年1月30日 (火)

いじめられている人とご家族の方、先生への手紙

いじめられている人へ
 自信なんか持たなくていい。がんばらなくていい。がまんしなくていい。根性なんかなくていい。ゆうきなんかなくていい。いじめっ子が幸福か不幸かはあなたに関係ないこと。
 まずはとにかく、避難(ひなん)してください。にげてください。
 学校にいるときなら保健室へ。保健の先生に話をしてみてください。ゆっくりと。つぎの日、教室に入るのがこわかったら、また保健室へ行ってください。

ご家族の方・先生へ
 まず、お子さんを信頼してください。お子さんのつらさを共有してください。根ほり葉ほり、詰問(きつもん)するのは後でもできます。そっと抱き寄せて、感じてください。
 励ましたり、激励したり、「だいじょうぶ?」「元気出して」と言わないでください。心配な顔をしないで暖かく受け入れてください。
 学校に相談するのも抗議しに行くのではありません。
 クラスで、時間をかけて話し合ってください。犯人探しではなく、どうすればみんなが心地よいクラスを作っていけるかを。

その、やわらかな心を大切にしてください。

投稿 寸胴 | 2007/01/29 23:19:19

さきほど、 こちら  へコメントしました。元記事を否定するようなコメントなので削除かなぁ

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2007年1月29日 (月)

重要な視点が抜けている「給食費滞納問題」~社説批判~

 公立学校での給食費滞納が社会問題となっているらしい。毎日新聞が、1月26付け社説で論じている。
しかし、重要な視点が抜けていないか? 記事は滞納理由を【学校の認識だと】で片づけている。その裏付け取材はしていないのだろうか。これでは大本営発表と大差ない。

その、学校の認識だと滞納の理由は
  保護者の責任感や規範意識 60%
  経済的理由 33%
  (引き算で)その他 7%

と、ある。そして、保護者の意識=【明らかに支障はないのに踏み倒し同然に滞納を続け、請求に対し居直ったりする保護者】と決めつける。取材の裏付けがあるのか、伝聞による推測なのか、明確にしてほしい

 たしかに、子が、他の子と同様に給食を食べているにもかかわらず、納入の督促をするとその場限りのような言い訳を繰り返したり、居直って怒鳴り出す親もいるだろう。しかし、1%×60%=全体の0.6% の多数がそうである確証はない。たまたま1~2ヶ月振込を忘れた場合も含まれているのではないか(奨励・是認するつもりはないが)。督促する方も、電話・口頭で済ましてはいないか。それは事なかれ主義だ。失礼のない書き方で文書で督促するだけでも、効果はあるはずだ。雛形一つ、作っておけばよい。

 一方、学校判断の「偏食」が体罰になっていないだろうか。私は殆どの食べ物が好きだが、学校給食でどうしても食べられなかった事が1度だけある。その時は、給食後の休み時間と、掃除の時間が終わるまで「その」食べ物とにらめっこしていた。掃除が終わる頃、ようやく先生が『残していいよ』と言ってくれた。私には残すという概念がなかったのだ。今でも覚えている。もう30年以上前だが…。マズイものはマズイのだ。

 オトナが偏食と決めつける、嫌いな食べ物・食べられない食べ物もその本人の自然な防御反応であることをオトナは知るべきだ。昔からハンバーグやカレーに細かくして入れたりする工夫はある。

 しかし、細かく混ぜ込む工夫を「してはならない」場合を忘れてはならない。食物アレルギーだ。
当たり前だが、本人の意志とは関係なく、アレルギー反応は起こる。食べなくても、触れただけで危険な場合もある。その場合、毎日弁当を持たせる事が多い様だが、その場合も『平等』に給食費を徴収していないだろうか。決まりだから、と督促されて多くの人が要らぬ負担を強いられていないだろうか。

 いわゆる公式発表を鵜呑みにして、同じ観点だけからしか論じないのは大衆報道として失格だ。誰かが言っている「規範意識の低下」にお墨付きを与える社説に危機感を覚える。

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アクセスカウンター

cocologのアクセスカウンターが固まってます。
3475番から増えてない。障害情報もない。困ったものだ。
おかげさまで実数はもうすぐ4000になりそうです。
読者としては、じっくり読むかどうかの指針になるんだからね。
しっかりしてよ。ココログさん!

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2007年1月26日 (金)

育憲論者宣言~憲法を守り育てよう~

寸胴はここに「育憲論者」たることを宣言する。

憲法に護られ守り育てる。いま、求められているのは、この育憲論と確信する。

 敗戦・復興後60年を経過し、日本国憲法は一部論者の勝手な解釈と外圧により骨抜きにされてきた。しかし『樹空根葉』(注※)だ。幹はしっかりしている。憲法ではその理念を変える手続きは規定していない。理念を変えるとすれば、それは【革命】に等しい。

 ご神木を切り倒すのは簡単だ。機械式ノコギリもある。その判断を代議師の決定に任せて良いのか。有効投票過半数ではいわゆる「国民」の2割程度の賛成票があれば成立する。この地に暮らす人を分母とすれば1割5分位か。【国民投票法】与党案・民主党案ともに反対する。少なくとも有権者の3/4は必要だ。

 報道・広告規制など論外。国会で審議を尽くし、あらためて国民のしんを諮う。国会での議決基準より緩くて良いはずはない。実質反論の機会を奪う広告規制や政府の無料広告は国民を愚衆と見ているに等しい。良い案ならば報道機関も自らの良心に従って報道するし、賛同者も自然に増える。ただでさえメディア露出度が多い政府が「無料広告」を報道機関に強制するのは、世論操作・捏三だ。

と、堅苦しく吠えてみた。
お玉さ~ん、そちらの諸兄様、この記事に、ご意見下さ~い。

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2007年1月24日 (水)

ガス点検詐欺にも御注意を

(無差別的TB御免 ご不快なら即刻削除してください)
 北海道でガス中毒事故があった事は広く報道されている。まずは犠牲者のご冥福をお祈りしたい。引用したのはこの事故を受けて経済産業省が各ガス会社に点検指示を出した事を伝える。点検は大事だし、消費者としても協力すべきと思う。

ただし、点検に来た人がホンモノとは限らない。ガス点検詐欺かも知れないからだ。
『ガスの点検に来ました!お台所を点検させてください』と言って上がり込み、台所を物色してから『終わりました。異常ありませんでした。点検代○○円お願いします』

過去にどの位の被害があったかは把握していないが、今回の点検に便乗するやからが出てくると思っていた方がいい。見られていないのをいいことに部品代まで請求されるかも知れない。ガス警報器詐欺も出てくるかも知れない。

ガス会社は事前の通知なく点検に行かないだろうから、家に上げる前に身分証などを写し取り、「少し片づけるから待ってて」と外で待たせ、ガス料金明細などに書かれている電話番号でガス会社に確認する事をお勧めする。間違っても来た人の身分証・名刺などに書かれている電話番号を信用してはいけない

このような詐欺被害を防ぐため、ガス会社と大衆報道機関には次のことをお願いしたい。
・詐欺が予見されることを周知してほしい(この記事が「デマ」となることを願う)
・一酸化炭素含有ガスの全ユーザーに、その事を再度連絡し、周知する。使っている着臭剤の匂いを知ってもらい、「いつもと違う、おかしい」と感じられるように出来ないだろうか。
・一酸化炭素中毒の心配が少ないガスを供給している会社も同様。『当社がお宅様に供給しているガスには一酸化炭素は含まれておりません(○○ppm以下)』など。
・個別宅の点検は事前に(出来れば)誰が行くかまで連絡し、当日は名刺又はサイン入り点検済み証を残す。また、現金・振込などでの費用請求はしないことを周知する
・今回の事故で、またも悔やまれるのは初期の異常通報が生かされずに致死事故となったことだ。ガス会社による殺人と言ってもいい。小さな異常を隠さず広報していれば防げた事故だ。結果論との言い訳は聞きたくない。
・主要因を北見または北国特有の現象と決めつけていることが危惧される。老朽化の影響が大きかったと仮定すると、今後全国各地でガス漏洩事故が起こるだろう。現時点で「原因を決めつける」のは非常に危険だ。

※一酸化炭素(いっさんか たんそ) 化学式:CO
 無臭・無色の可燃性気体。大気中にも微量存在する。炭素を含む物が燃えるときに空気中の酸素と結びついて発生する。完全燃焼すると二酸化炭素(炭酸ガス)になり、二酸化炭素自体は無毒(呼吸により体内で作られる)。一酸化炭素は不完全燃焼した時に発生し、吸い込むと酸素のように赤血球に吸着して離れにくい。この性質により「一酸化炭素中毒(窒息)」が起こる。ガス給湯器の事故も不完全燃焼による一酸化炭素中毒が一因。
 今回の事故は主成分であるメタンガスに混合した一酸化炭素が原因と見られている。ガス会社から燃料用として供給されているガスには着臭剤で臭いを付けて、ガス漏れが分かるようになっている。主成分に臭いがある訳ではない。

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2007年1月21日 (日)

まず自分から『平和』を始めよう

【父は、私の生活を見て怒りました。「このままでは頭でっかちになってダメになる。お金や名声は流れてゆくものだけど、知識は一生の宝。カナダへ留学して、頭を冷やしてこい」】
【そのとき、私は歌を通して、人と人との架け橋になりたい!そう心に誓ったのです。】
【なぜ、仕事場に子どもを連れていくだけで論争になるのか、理解できなかった。】
【アメリカは、大学の中に保育園があったり、社会人が学べるよういろんなサポートシステムが充実しているんです。】
【タイ、スーダン、東西ティモール、カンボジア、イラク、レソトなど9ヶ国を視察しました。そこでは、児童買春、人身売買、エイズ、児童労働、戦争、貧困など、信じられないような悲惨な状況を見てきました。】

と語るのは
http://www.wendy-net.com/nw/person/212.html
「まず自分から『平和』を始めよう! 人は変えられないけど、自分は変えられるんです」

多くを語る必要はないだろう。元記事を是非ともご覧下さい。
きっかけは家に配られた無料情報誌(トップページは http://www.wendy-net.com/  )なんですけどね。上流階級で裕福な家庭で育った(であろう)人だけどとっても素敵に思えました。

この人の名前を書くとアクセス数upするのだろうけど、敢えて書きません。この記事だけで分かった人に座布団2枚。元記事に共感できた人に1枚、コメントくれたら3枚+成果座布、差し上げます(^O^)

また、【今年は自分でも平和をテーマにした曲を作りたいと思っているんです。】とのこと。期待したい。
私たちは Peace song (+We shall overcome) 始めました(言い出しっぺはワタシ(^v^)

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2007年1月11日 (木)

避ける努力と逃げる勇気

「私は政治のことなんかなーんにもわからない人間です。何が『美しい国』やら知らないし、安倍政権の安倍の字だって間違える。でも、ここ数年の間に日本は随分勇ましい国になったとは思います。国策だの愛国心だの、そんな言葉が軽く使われるようになった。あっという間にね。だから、あんな『非国民』の歌も歌った方がいいのかなと」 と、加川良(1947- )は語る。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20070110/mng_____tokuho__000.shtml
私たちの「美しい国へ」<7> 非国民の精神 ■フォークシンガー加川良氏 

高石ともや、岡林信康らが「反戦のために戦おう」と呼びかけるのに対し、彼は「尻込みしなさい、逃げなさい、隠れなさい」と歌った。1970年の事である。それから三十余年、今も歌い続ける。

時は戦国時代、武将達は何度となく戦を仕掛けた。今で言う民兵として農村からも兵が出た。みな、お里のために戦った。名将であるか否かは「引き際」をわきまえているかどうかだと、私は思う。更に、争い・戦を避ける努力をできるかどうかも重要だ。

敗戦後、日本は「永久に武力による紛争解決はしない」「武力による威嚇はしない」と世界に宣言した。その後、戦勝国であり、侵略威嚇強大アメリカの意のまま、永久の誓いを墓地に葬り、覆い土をしてきた。

相撲は「国技」とされている。裸で一対一で対戦する。これは武器を隠し持っていない事を互いに示し、持てる力と技の限りを尽くして戦う、そんな精神によるものと聞く。昔は相撲で集落同士の諍いに決着を付ける事もあったという。男尊女卑や生理学的に無理して体を作るなどの弊害は別にして、『武器を持たない』という精神は大切にしたい。
これぞニホンの心だ(相撲と類似した競技が他国にもあることは重々承知している)。

戦うことが、カッコイイんじゃない。迷彩服は格好悪い。軍服は威圧的だ。足並み揃えての行進は寒気がする。
『重大な決定・決断はできるだけ後回しにする』のも自尊心を傷つけられるかも知れないが重要な知恵だ。
戦わないことがカッコイイんだ。毅然として戦わない。それが強い心だ。逃げる勇気、避ける勇気、不安に胸を張る勇気。胸を張らなくてもいい。不安・心配を周りの人にうち明ける勇気。それに気づき受け入れる感受性。

戦争を怖いからと逃げる勇気。小さな声でも訴え続けたい。

(ご感想コメントお待ちしてます。尚、元記事全文引用は今回はしません。リンク先をご覧下さい。また、本ブログを二次利用なさった場合はご一報下さるとうれしいです。)

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2007年1月 8日 (月)

政治屋は悪者か~社説批判~

朝日の社説『政治の明日「政治屋」排する1票を』(07/1/7-2)に異議あり。
よく言われる言葉を思い起こす。「政治家は次の時代のことを考え、政治屋は次の選挙のことしか考えない」
今年は統一地方選、参院選と続く。政治家を選ぶか、政治屋を選ぶか。国民一人ひとりが確かな目を持ちたい。
 朝日が政治に関心を持とう!よく判断して積極的に投票しよう!と言いたいのは分かる。しかし、○○屋を卑下し、戦争への備えが必要、とも取れる社説には賛同できない。

 八百屋や米屋、魚屋、酒屋、を八百家、米家、魚家、酒家というだろうか。彼らは日々御用聞きに回り、配達する。電話一本ですぐ届けてくれる。かつては「つけ」もきいた。商売繁盛のためには今日の満足から、を知っているから。野菜作り、米作りは農、魚は漁、酒造りは酒蔵・杜…と職業毎に言い分けられるが、「家」が善で「屋」が悪なのは政治だけではないだろうか。逆に「活動家」に対する印象は必ずしも良くない。私は技術系の仕事をしているが『技術屋』に誇りを持っている。なぜなら、技術は手段であって目的ではないからだ。このブログを書いているときは『言論屋』で居たいと思っている。思想家とか批評家とかは似合わない。

○○屋は商店で使われることが多いが、顧客にとって好い店は「○○屋さん」と親しみを込めて呼ばれる。宿屋さんもそうだ。

議員・政務に関する公務員は「政治屋」と呼ばれるのを嫌っているようだ。特に自民党議員は政治屋と呼ばれると誹謗中傷されたと勘違いするほどに。政治屋ではなく政治家です、と恥も外聞も知らずに公言しているHPもある。

 【政治家は次の時代のことを考え】ている様で、名前連呼が好印象につながると信じて疑わない。与党や時には野党も既得権益を「守る」ため、選挙制度を都合良く変えてきた。推薦政党まで含めた獲得議席数と獲得票数推移、投票率推移を振り返ってもらいたい。投票率低下の要因は報道の姿勢にもあったはずだ。他人事みたいな傍観屋報道機関はいらない
 【政治屋は次の選挙のことしか考えない】と政治家や「よく言われる言葉」を格言として捉える人々は揶揄する。そう言うと、自分達はいかにも崇高な思想を持ち、視野が広く将来のことを考えているかのように錯覚できるから。だが、明日のことより今日の飯・今日の塒(ねぐら)だ。今日がなければ明日はない。次の選挙で当選するために支持を伸ばそうとする事自体は至って健全だ。当選すれば自分の考えを実現する事に大きく前進するのだから。

社説はまた【いまはまだ晴れ間があっても、いずれ曇りや雨の日がやって来る】【将来への備えを怠るわけにはいかない。それが政治の最大の責任】と主張する。しかし、戦後60年間「核の雲」に覆われ、核の地雷原を敷き詰め、挙げ句に核空母を容認しようとさえしている。どこに晴れ間があるのか、実感できない。効率は期待値以下かも知れないけど時間をかけて頑張ればそれなりに評価してくれた時代も危機に瀕している。「頑張れ」と言われ頑張るが、残業が続き効率が落ちたら「ダメじゃないか」「もっと頑張れ」。もっと頑張って病気になる。ついには自死を選んだり犯罪行為にはけ口を見いだそうとする。病気で労災申請しても「不支給」。自業自得と言われる。「もっと頑張れ」と。
いずれやって来るのはミサイルの雨と原爆の閃光なのだろうか。さぞ明るいだろう。【将来への備え】として世界最大級の日本軍と、敵を「排除」し無表情で殺せる兵士、マニュアル以上のことはやらない、できない、考えない兵器工場員、それらをできるだけ低コストで調達できる教育・世論。それを実現するのが【政治の最大の責任】だろうか。

モラル低下、規範意識低下が叫ばれているが、一番欠落しているのが政治家の「順法・遵法意識」だ。憲法を曲解して「解釈」と正当化してきた。さすがに無理が出たので改憲を叫ぶ。偽装世論も100万円で買収。実費だけで23億の損害を100万円で買い取るのだから商売上手だ。時幸いに仮想敵国が戦意満々「絶対に放射能漏れのない核実験」成功を誇示している。【核爆発以外で人工地震をおこす】のが一番簡単。核爆発だったとしても可搬性があり、さらにミサイルに搭載できるかは甚だ疑問だ。そこまでできているなら、爆発の瞬間を捉えた映像くらいは公表するだろう。公式に「できた」と言明しているから非難・経済制裁等の措置を取るのは当然だが、軍拡は相手に攻撃の口実を与えるだけだ。自衛隊が「軍でない」と広く認識されている国はどのくらい有るのだろうか。

話が長くなったが、恐怖政治に恐怖報道で対抗するのは愚かだ。朝日信奉者からの反論を期待する。

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2007年1月 4日 (木)

教育革命元年~国家による統制に服従を~

政府と教育「再生」会議の目論見が少しずつ形になってきた。
 1.社会人教員(免許非取得)の増員 50人/年-10年→500人/年 (全国)
 2.不適格教員の排除徹底
 3.塾の禁止
 4.いじめ問題の責任転嫁 → 「社会総がかり」で取り組む必要がある(政策の責任ではない)

 民間企業での社会経験者を教職員に採用すること自体は賛成だ。しかし、優秀な人材を確保するためには相当の対価が必要なことを忘れてはならない。また、例えば短大卒なら2年、大卒なら1年の実務経験と、校長推薦で教員免許を付与するなども必要だ。さらに、現職の教員にも他科目の免許を業務として取得できる様な制度も考えられる。
 学問の進化過程を考えると、「宗教・哲学」に始まり、哲学が自然哲学人文哲学に分化した。その後に自然科学人文科学に発展し、それぞれが細分化して現在の学問体系が形成されてきた。しかし、この数十年で「学際的分野」が重要視され学問体系の再編成が進んでいる。例えばコンピュータのプログラム「言語」は数学系の人が得意とされているが、実は「論理思考」と「例外予知能力」が重要だ。情緒や感情論のみを得意とする「古典的言語学者」には手も足も出ない。
 学校教育課程にもそれが影響しており、専門科目にとらわれない「総合学習」や「情報科」などが設けられてきた。しかし、学習の目的が発散していることが多いようだ。科目の新設時に十分な準備がなされたか、今こそ検証すべきだろう。また、大学の教員養成課程や新任者への教育体制が時代の変化に適応しているかも問われなければならない。

 これらの検証なしに「不適格教員の排除徹底」はできないはずだ。そもそも「不適格教員」と烙印を押せるのは誰なのか。教員として採用した以上、その個人の適性を見極め、必要な教育の機会を与えるのは採用した側の義務である。真面目でやる気のある新人を雑務で忙殺し、壁に当たったら蹴落とす、そして心身を壊して辞めてゆく。自分に絶望し「自殺」する。なぜ「生き甲斐のある職場としての学校」を作ろうとしないのか。私は不思議だ。社会人枠の確保が目的だとしたら、本末転倒だ。現状で「生き生きと」働いている優秀な人材が応募するはずがない。

 更に「塾の禁止」も、塾で生き生きと働く先生の職を奪い、学校で安価に雇い入れるためかと考えたくなる。
教育再生会議の野依座長は
「塾はできない子が行くためには必要だが、普通以上の子どもは禁止にすべきだ」
「我々は塾に行かずにやってきた。塾の商業政策に乗っているのではないか」 (以上、日経12/24 7:00)
と、強行に主張している。
 教育は社会が未来のために行う「投資」という側面を持つ。大学附属小→天下の灘中高→京大という経歴を持つ野依氏にとっての「我々」「普通」はレベルが非常に高いのだろう。庶民は食費を削ってでも塾に通わせているのに。戦後の「前半」に小中学校に通っていた私は塾通いをしていた。教科別・習熟度別にクラス分けされていて、授業内容もよく工夫されていたためか、学校よりおもしろかった。しかし、当時の先生は塾通いにいい顔をしてくれなかった。今も先生の意識は変わっていないのだろうか。
 この「野依発言」については、
http://supplementary.at.webry.info/200612/article_5.html
論理破綻し、滅茶苦茶な野依良治座長の発言   作成日時:2006/12/24 15:38
でも論じられている。参考にされたし。

 最後に「いじめ問題」。『「社会総がかり」で取り組む必要がある』イコール『政策の責任ではない』と責任転嫁してしている。過去に私は「栃木の食品卸売会社新入社員自殺労災認定に寄せて」で次のように述べた。

文部科学省は「いじめ」の要件として次の3項目を同時に満たすことを要求している。

(1)自分より『弱い者』に対して『一方的に』
(2)身体的・心理的な攻撃を『継続的に』加え
(3)相手が『深刻な』苦痛を感じている        (『』付けは寸胴)

あくまで「いじめる側の視点」だ。この定義によるといじめた側は「自分は強くない」「一方的じゃない」「継続的じゃない」「深刻じゃない」いずれか一つを証明できれば無罪放免となる。逆にいじめられた側はこれら全てを立証しなければならない。なにかおかしくないか?
いじめられる側はそれを「いじめ」とも思わず「身体的心理的な苦痛」を感じ、自分を叱責し、時に死を選ぶ。

自殺した子供の御両親が、学校の先生に罵声を浴びせるかの如く悲しみ苦しみを訴える姿は見るに忍びない。学校側は責任を認めたくないのか謝罪せず唯々うなだれてそれを聞く。親としては誰よりも先に我が子の異変に気づき、守ってやりたかった、そんな悔しさもあるだろう。しかし、信頼していた学校に裏切られた苦悩は計り知れない。学校がご遺族や他の被害者の立場であらゆる要因を調査・公表し、どうやって信頼回復を図ってゆくのか、具体的に計画し、進捗を報告して行くことが必要と思う。校長や一教師をクビにしても問題解決にはならない。

 学校に限らず大人社会でも意見の衝突、見解の相違、弱者への迫害などはある。色々な技術の進歩で便利になった気がするが、道具に使われて「気持ちのゆとり」が失われてきた。健康な人は世の中全ての人が同じ程度に健康だと錯覚する。「それがフツウでしょ」と。車を運転するときバイクや自転車、歩行者は邪魔者扱いだ。トラック・ダンプからしたら軽自動車など虫けら同然。シニアカーや車椅子で歩道を行こうにも幅が狭く段差がきつい上、電信柱や自転車で走りにくい。でも先を急ぐ歩行者には邪険にされる。

 学校ではまず「子供だけにしない」事が急務だ。そのために「複数担任制」を来年度から実施してほしい。休み時間、放課後も子供が学校内にいる間は誰かが目の届くところにいる。いつでも相談にのってあげられる。それくらいの「気持ちのゆとり」教育が求められているのではないか。児童・生徒に上っ面の「ゆとり」を与えようとしてみたが、滑ってこけた。しかし「良かった点」も見つけてほしい。ゆとり教育が「失敗政策」としても、その『失敗』から学ぶべきものは多いはずだ。元に戻せと懐古的発想に陥る愚だけは避けなければならない。

We shall overcome.............some day...................

以下、「続き」に参考URL

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2007年1月 3日 (水)

郵政民営化の陰

 既にご承知の方も多いと思うが、元郵政省管轄の会館・ホール・保養施設・地域文化活動支援施設・健診センター等が相次いで廃止される見込みだ。理由はいずれも「採算性が見込めない」からだ。宿泊施設については大手ホテルグループが再編を余儀なくされるなど、民間でも経営難が伝えられている。

 しかし、万策を尽くしての「廃止」なのかどうかは疑問に思う。地方自治体や民間に経営権を譲渡し、設備の存続をはかる道はないのか、残された時間で再度検討してほしい。

 取り壊して箱物を作り直すのも、一時的に地元の雇用確保になる。しかし、耐用年限まで使ってこそ設備は生きる。郵便貯金として庶民の財産を預かり、その収益で設置・運営してきたはずだ。庶民と地元が納得できる説明と地元の活力につながる「経営再建」を切に願う。「もったいない」は大切だ。

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あけたからおめでたくありたいです

あけたらしいので おめでたくありたい と おもいます

ときは むじょうに かくじつに すぎてゆく

えんめいぎじゅつ も しんぽ してるけど ひとはみな おいてゆく

じんかくは しょうがいを おえるときに かんせいする

しあわせに しにたい いつのひか

それまでに どれだけの かんどうを のこせるだろうか

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