「いじめはなかった」なぜ、すぐに思えるのか?
とても悲しいことがあった。中学2年生の自殺とも思える状況での転落死だ。それも学校内で。
この事故(事件)の夜、学校長が記者会見で次のように語った。
「友達付き合いで悩んでいたのは把握していた。いじめがあったとは思っていない」【朝日】
この言葉を読んで、私の悲しみはさらに深くなった。
なぜ、すぐに「いじめがあったとは思っていない」【朝日】と語れるのだろうか。もちろん、他の在校生や教職員そして学校長自身の事を思って、いや、かばっての発言という心情は理解できる。しかし、この一言で、仮に自殺と断定された時に、その背景や責任がすべて自殺した当人と家族にある、と、したい気持ちも見え隠れしている。
いじめは『あった』『なかった』という単純な切り分けが出来るものでないことを、昨年来から多発している学校内外での自殺とその報道から学んでいないのだろうか。
せめて、
『いじめの事実があったとは、把握していません。今後、在校生の将来に十分配慮した形で調査いたします。』
【記者Q】いつ頃までに調査するのですか?
【校長A】警察の捜査状況にもよりますが、概ね1ヶ月後には1次報告をさせていただきたいと考えています。
【記者Q】それでは遅すぎるのではないですか?
【校長A】非常にデリケートな問題ですので、ご理解いただきたく存じます。
といった発言はできないのだろうか。この発言でも【責任逃れをしているだけではないのか!】というお叱りはあると思うが、いきなり『いじめはない!』と言い切って『いじめはないことを前提なので、自殺の背景については説明責任がありません』というよりも、誠意が感じられる。
そして、自殺した生徒について、あらゆる情報を集めてほしい。その際、個々の情報がいじめに当たるかどうか、自殺に結びついたかどうか、という拙速な判断はしないこと。それがご遺族の方や、今、自殺が頭に浮かんでいる人への、誠意ある対応ではないだろうか。
亡くなられた中学生のご冥福をお祈りする。
続きに、上記引用した朝日新聞社の記事を載せます。
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