政府と教育「再生」会議の目論見が少しずつ形になってきた。
1.社会人教員(免許非取得)の増員 50人/年-10年→500人/年 (全国)
2.不適格教員の排除徹底
3.塾の禁止
4.いじめ問題の責任転嫁 → 「社会総がかり」で取り組む必要がある(政策の責任ではない)
民間企業での社会経験者を教職員に採用すること自体は賛成だ。しかし、優秀な人材を確保するためには相当の対価が必要なことを忘れてはならない。また、例えば短大卒なら2年、大卒なら1年の実務経験と、校長推薦で教員免許を付与するなども必要だ。さらに、現職の教員にも他科目の免許を業務として取得できる様な制度も考えられる。
学問の進化過程を考えると、「宗教・哲学」に始まり、哲学が自然哲学と人文哲学に分化した。その後に自然科学と人文科学に発展し、それぞれが細分化して現在の学問体系が形成されてきた。しかし、この数十年で「学際的分野」が重要視され学問体系の再編成が進んでいる。例えばコンピュータのプログラム「言語」は数学系の人が得意とされているが、実は「論理思考」と「例外予知能力」が重要だ。情緒や感情論のみを得意とする「古典的言語学者」には手も足も出ない。
学校教育課程にもそれが影響しており、専門科目にとらわれない「総合学習」や「情報科」などが設けられてきた。しかし、学習の目的が発散していることが多いようだ。科目の新設時に十分な準備がなされたか、今こそ検証すべきだろう。また、大学の教員養成課程や新任者への教育体制が時代の変化に適応しているかも問われなければならない。
これらの検証なしに「不適格教員の排除徹底」はできないはずだ。そもそも「不適格教員」と烙印を押せるのは誰なのか。教員として採用した以上、その個人の適性を見極め、必要な教育の機会を与えるのは採用した側の義務である。真面目でやる気のある新人を雑務で忙殺し、壁に当たったら蹴落とす、そして心身を壊して辞めてゆく。自分に絶望し「自殺」する。なぜ「生き甲斐のある職場としての学校」を作ろうとしないのか。私は不思議だ。社会人枠の確保が目的だとしたら、本末転倒だ。現状で「生き生きと」働いている優秀な人材が応募するはずがない。
更に「塾の禁止」も、塾で生き生きと働く先生の職を奪い、学校で安価に雇い入れるためかと考えたくなる。
教育再生会議の野依座長は
「塾はできない子が行くためには必要だが、普通以上の子どもは禁止にすべきだ」
「我々は塾に行かずにやってきた。塾の商業政策に乗っているのではないか」 (以上、日経12/24 7:00)
と、強行に主張している。
教育は社会が未来のために行う「投資」という側面を持つ。大学附属小→天下の灘中高→京大という経歴を持つ野依氏にとっての「我々」「普通」はレベルが非常に高いのだろう。庶民は食費を削ってでも塾に通わせているのに。戦後の「前半」に小中学校に通っていた私は塾通いをしていた。教科別・習熟度別にクラス分けされていて、授業内容もよく工夫されていたためか、学校よりおもしろかった。しかし、当時の先生は塾通いにいい顔をしてくれなかった。今も先生の意識は変わっていないのだろうか。
この「野依発言」については、
http://supplementary.at.webry.info/200612/article_5.html
論理破綻し、滅茶苦茶な野依良治座長の発言 作成日時:2006/12/24 15:38
でも論じられている。参考にされたし。
最後に「いじめ問題」。『「社会総がかり」で取り組む必要がある』イコール『政策の責任ではない』と責任転嫁してしている。過去に私は「栃木の食品卸売会社新入社員自殺労災認定に寄せて」で次のように述べた。
文部科学省は「いじめ」の要件として次の3項目を同時に満たすことを要求している。
(1)自分より『弱い者』に対して『一方的に』
(2)身体的・心理的な攻撃を『継続的に』加え
(3)相手が『深刻な』苦痛を感じている (『』付けは寸胴)
あくまで「いじめる側の視点」だ。この定義によるといじめた側は「自分は強くない」「一方的じゃない」「継続的じゃない」「深刻じゃない」のいずれか一つを証明できれば無罪放免となる。逆にいじめられた側はこれら全てを立証しなければならない。なにかおかしくないか?
いじめられる側はそれを「いじめ」とも思わず「身体的心理的な苦痛」を感じ、自分を叱責し、時に死を選ぶ。
自殺した子供の御両親が、学校の先生に罵声を浴びせるかの如く悲しみ苦しみを訴える姿は見るに忍びない。学校側は責任を認めたくないのか謝罪せず唯々うなだれてそれを聞く。親としては誰よりも先に我が子の異変に気づき、守ってやりたかった、そんな悔しさもあるだろう。しかし、信頼していた学校に裏切られた苦悩は計り知れない。学校がご遺族や他の被害者の立場であらゆる要因を調査・公表し、どうやって信頼回復を図ってゆくのか、具体的に計画し、進捗を報告して行くことが必要と思う。校長や一教師をクビにしても問題解決にはならない。
学校に限らず大人社会でも意見の衝突、見解の相違、弱者への迫害などはある。色々な技術の進歩で便利になった気がするが、道具に使われて「気持ちのゆとり」が失われてきた。健康な人は世の中全ての人が同じ程度に健康だと錯覚する。「それがフツウでしょ」と。車を運転するときバイクや自転車、歩行者は邪魔者扱いだ。トラック・ダンプからしたら軽自動車など虫けら同然。シニアカーや車椅子で歩道を行こうにも幅が狭く段差がきつい上、電信柱や自転車で走りにくい。でも先を急ぐ歩行者には邪険にされる。
学校ではまず「子供だけにしない」事が急務だ。そのために「複数担任制」を来年度から実施してほしい。休み時間、放課後も子供が学校内にいる間は誰かが目の届くところにいる。いつでも相談にのってあげられる。それくらいの「気持ちのゆとり」教育が求められているのではないか。児童・生徒に上っ面の「ゆとり」を与えようとしてみたが、滑ってこけた。しかし「良かった点」も見つけてほしい。ゆとり教育が「失敗政策」としても、その『失敗』から学ぶべきものは多いはずだ。元に戻せと懐古的発想に陥る愚だけは避けなければならない。
We shall overcome.............some day...................
以下、「続き」に参考URL
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